筆者について

筆者について

こんにちわ! 

英語発音講師の「えれな」です。

当スクールでは発音矯正に特化したオンラインレッスンを行っています。

会話は音声のキャッチボールです。

文字を見ながら会話する訳にはいきませんから、瞬時に音を聴きとり、瞬時に音を発するチカラを付けることが不可欠です。

仕事で、プライベートで英語を使う中で「通じる英語」の大切さを実感しているからこそ、発音で悩む学習者様のサポートをさせていただきたく、プライベートレッスンを開講するに至りました。

受講者様の多くは社会人の方です。
発音が改善した生徒様から喜びの声をいただいております。

 

英語学習の略歴・資格など


学歴: 関西外国語大学英米学科卒業 
資格: 英検1級・TOEIC925点
業種職種: 商社及び機械メーカーにて海外営業

海外勤務:アメリカ・中国・イギリス

海外出張:イギリス・アメリカ・ドイツ・タイ・韓国・中国・ロシア・トルコ・フランス・スペイン・ポルトガル・イタリア・カナダ・ドイツ・オーストリア・チェコ・ギリシャ・スウェーデン・エジプト・ポーランド・オランダ

一人旅:中国・ベトナム・カンボジア・タイ・マレーシア・インドネシア・インド・フィリピン・香港・ラオス・オーストラリア・ニュージーランド・スロバキア・フランス・セルビア

居住経験国:メキシコ(0~1歳)・スペイン(4~5歳)・フランス(10~11歳)

本サイトの対象となる方は、主に「基礎学力があるのに会話(話す・聴く)で苦労している方」です。

会話は「発音・語彙・文法」の三要素から成り立っていますので、どの要素が欠けていても会話は成立しません。この三要素は土台(基礎学力)と言えます。イメージ的には以下のような感じです。

会話
発音 語彙 文法


ある程度の会話ができるかどうかの土台は中級レベルの基礎学力が必要です。中級と言っても幅広いので私自身の経験を元に、以下のレベルを中級とさせていただきます。

●中学~高校時代に英語成績が平均70点以上あった方
●英検準2~2級/TOEIC500~600点同等の学力を保有している方

これくらいの学力があるのにもかかわらず、会話に苦労されている方は「発音改善」と「1000時間の会話練習」をプラスすることで飛躍的に会話力を伸ばすことができます。

基礎学力が不足している方はまず、英検2級レベルを目標にしましょう。

 

 

言語習得の基礎は発音だと考えるようになった背景を時系列で執筆中です。

少しずつ書きますので気長にお付き合いくださいませm(__)m

 

【中学時代】英語の授業で落ちこぼれる

今思うと当時、私の英語に対する理解力は「沈みゆく船」のようでした。浸入する水をかき出してもかき出しても水深は深くなる一方。そんな状態から危機一髪、直前で救ってくれたのは中学校2年生の英語担当の先生でした。

落ちこぼれ寸前の私がどのように起死回生したか、英語で再起したいと思う方の一助になればと思い、その経緯を詳しくここに書き記します。

あれは中学1年生のときでした。

初めて英語を勉強しましたが、その時は「少し面白いな」と思ったくらいで、「好き」という気持ちはあまりありませんでした。 でも、中1の内容は比較的、分かり易かったので、テストの点数はなんとか90点以上取れていました。

ところが、中2になると文法でつまずきだんだん勉強が面白くなくなりました。そして、中間テスト頃から50点くらいしか取れなくなってしまいました。どの文法で分からくなったのか、今でもはっきり覚えています。

例えば、You are hungry. が疑問文になるとAre you hungry? のように、どうしてAreが前に出てくるの?とか、He likes dogs. が Does he like dogs? のように、なんでいきなりDoesが出てくるの?とか、そんな基本的なこともあまり分かっていませんでした。

You are hungry ⇒ Are you hungry? (Areが前にでるのは理解できる)

He likes dogs. ⇒ Does he like dog? (どこからともなく現れるDoesって何!?)

Doesって何? likesの”s”が無くなるのは何故??
それに、疑問形ではHe, She, ItにはDoesで、I, You, We, TheyならDoが使われる、ということさえ把握しきれていないまま授業は進み、理解できないのでだんだん英語が嫌いになっていきました。家に持ち帰るテストの点数が50点より下になった時、母が心配して私を英語の塾に入れましたが、それでもイマイチ分からない日々が続いていました。

【中学2年】Be動詞と一般動詞の違いが理解できた運命の日

言われるがまま塾に通いましたが、塾に行ってもどうせ分からないのに面倒くさいなぁ、などと思っていたように記憶しています。その頃、学校では英語の授業が始まる前に文法の小テストをさせられていました。それは教科書とは別に、先生独自の考えで追加された内容でした。肯定文から疑問文に変える、肯定文から否定文に変える、という単純な内容でしたが、何かしら間違うので、苦痛を感じていました。

でも、振り返って考えると大切な内容だからこそ先生が繰り返し小テストをさせていたんじゃないかな?と思います。大袈裟だけど、その後の英語生命の分岐点ともいえるほど、重要な内容だったと今では分かります。

そんなある日、いつものように手探りで小テストを解いていると、なんと今まで分からなかった問題が突然分かったのです!それは、稲妻に打たれたような感覚でした。今まで濃霧の中でぼんやりしていた視界が一気に開けたのです。この感覚は今でも忘れられません。

この体験のお陰で、躓いても諦めずに分かるまで勉強すればいつか道は開けるんだ!という自分を信じるチカラが付きました。もし、教科書通りに授業を進めるだけの先生だったら、私はこの時点で完全に落ちこぼれていて、何に対しても自信を持てないまま人生を送っていたかもしれません。こんな私を窮地から救ってくれた先生には感謝してもし切れません。

ただ、言うまでもなく日々の積み重ねも大切です。塾は週1回1時間を3年くらい続け、その他に自習も怠りませんでした。学校の授業の予習・復習、そして市販の問題集を解き、単語を覚え、長文音読もしていました。このような小さな積み重ねがあったからこそ、学校の小テストで突然理解ができたんだと思います。

【中学3年】英語力がつくとイジメからも解放された

中2の前半で嫌いになりかけていた英語が、中2の後半ではすっかり好きになっていました。好きになるとどんどん自分から勉強したくなるので、成績は急上昇しました。中学3年生の英語の先生は、答案用紙を返すとき成績優秀な生徒の点数を読み上げていました。毎回、クラス全員の前で先生から褒められるようになると嬉しさ倍増でもっと勉強しようという気持ちになっていきました。

ここで英語とは関係ないお話しになりますが、実は中1後半から中2の半ばまで、少しいじめられていました。でも、英語の成績が上がるにつれて、いつの頃からかイジメていた人たちの態度が変わってきて、私に英語の勉強法を聞いてきたり、親しく接してくるようになりました。登校拒否になるほど学校が嫌だったのですが、英語のお陰でイジメがなくなり普通に学校に行けるようになったのです。

一般的には、英語ができるようになると、世界中の人とお話しができるとか、もっといい仕事に就けるということが目標になるのかもしれませんが、私の場合はイジメられなくなった、という生々しい体験を通してもっと勉強しよう、と頑張れたのかもしれません。

【高校時代】一度身に付いた英語力は持続する

高校生になると文法も更に難しくなり、何度も壁にぶつかりましたが中2の体験を思い出しながら勉強を続けていました。テストの点数はなんとか80点以上を保っていたように記憶しています。ただ、高1の文法の先生の発音があまりにひどくて気持ちが萎えてしまいました。その先生は50代くらいの男性で、There isをゼアリズとThere areをゼアラーと思いきりカタカナ英語で発音していたのでそこに気が取られてしまい集中できなかったのです。

高2の先生は30代の男性で、発音も比較的良かったので気に障ることも無く学習に集中できました。また、当時流行っていたシンディ・ローパーの曲などを教材に、聴き取りテストをしてくれたので洋楽ファンの私にはワクワクする授業でした。

高3の先生は40代の女性で、発音は良かったと記憶しています。教え方も丁寧で良く分かりましたし、親しみやすい人柄だったので積極的に質問しに行っていました。この頃、5教科で成績が良かったのは英語だけだったので、迷うことなく関西外国語大学の英米語学科を受験しようと決めました。先生は受験の追い込みで補習をしてくれていましたが、私は独学の方がより頭に入ると感じていたので、帰宅して家で受験勉強に精を出していました。

【大学時代】9か月間のワーキングホリデー体験

努力の末、晴れて希望の大学に合格しましたが大学の授業は高校の延長のような内容だったので、興味を持てず1年で退学したいと思うようになりました。当時、父がベルギーで仕事をしており、ベルギーの公用語は英語とフランス語なので現地に行きたいと母にお願いしましたが聞き入れられませんでした。

このような経緯があり、大学の勉強に興味を失ってしまい3年生までズルズルと力が入らない状態が続いてしまいました。友人たちも本気で英語を習得するというより学生時代を謳歌していたので、例に漏れず私もうつつを抜かしていた時期だったと反省しています。

ところが、殆どの友人が4年目を休学して海外に行くという展開になり、私も流れで海外に行きたいと思い始めました。ただ、どの国に行きたいなどという明確な目標はなく、何となく英語圏で英語を学べたらいいな、という程度の考えしかありませんでした。

一方、しっかり者の親友は、オーストラリアにワーキングホリデーしに行くプランを立てていたので私もそうしようかなと思い始めました。当時、ワーキングホリデーVISAで行ける国はカナダ・ニュージーランド・オーストラリアの3国に限られていて、今のように選択肢がありませんでした。そこで私は消去法で考えて、カナダは寒いので無理だし、ニュージーランドは仕事が無さそうなので止めておこう、残るは比較的暖かくて仕事も有りそうなオーストラリアだけかな、という安易な考えでオーストラリアに決めたのです。

ところが、親友はオーストラリアに行かずバックパッカーで世界一周旅行に行くことにしたのです。当時の私は海外に対する恐怖心の方が大きかったので女一人で世界一周など、自分には到底無理だと思っていました。比較的安全なオーストラリアでさえ、一人で行くのは気持ちの負担が大きかったと記憶しています。

英語専門の学生なのに英語が聴けない話せなくて完全自信喪失

安易に決めたオーストラリアではありますが、VISAの手配等々も済み、とうとう出発の日が来ました。ワーキングホリデーVISAで13か月間現地滞在できるのですが、休学期間は1年なので11か月滞在予定にしていました。先ず、メルボルンでホームステイをして、1か月間は語学学校に通い、英語に慣れたらその後仕事をしようと思っていました。

大学3年間、あまり真面目に英語の勉強をしていなかったと先に書きましたが、それでも中学~高校で成績が良かったので自分はある程度できている、という根拠のない自信がありました。ですがメルボルンで出迎えてくれたホストファミリーと会った瞬間、その自信は粉々に砕けました。どれほど英語で会話ができないか、という現実に初めて直面したのです。

大学や日本国内の英会話学校で教えてくれるネイティブ講師は、生徒のためにかなりスピードを落として、丁寧に分かりやすく話してくれていたから自分はある程度聴きとれるという錯覚に陥っていたんだ、と思い知らされました。どうしてかと言うと、ホストファミリーの言ってることも聴きとれなかったからです!!

更にショックだったのは、私の英語も相手に通じていないということでした。日本ではネイティブ講師には通じていたのにどうしてオーストラリアでは通じないの? という大きな疑問にぶち当たりました。単語も文法も正しく使っているのにどうして通じないんだろう? と悩みに悩んだものです。何人ものオーストラリア人やその他の外国人から指摘されるうちに、その原因は発音にあるということに気付いたのです。

特に、発音には自信があっただけにショックも大きかったです。

良く言われたのが「君の発音はいいけど単語1つ1つ区切りながら話すから、センテンスとして意味がつかみ難い」ということでした。当時は、音が繋がると変化するなんて知らなかったので、1つ1つの単語をクッキリハッキリと発音していましたが、それではダメだということがだんだんと分かってきたのです。また、正しいと思っていた単語の発音自体、思い込みで間違った発音をしていたこともありました。

もちろん、会話が成り立たない要因は発音だけではありません。語彙力の無さ、文法力の弱さ、ネイティブ的表現を知らなかった等々、有りますが自分のあまりの無力さに焦りばかりが先走り、来る日も来る日も「どうして私はこんなにできないんだろう」と、気持ちばかりが焦り、自分自身に「英語ができない私」というレッテルを貼るようになっていきました。

英語に慣れるため、1か月だけ学んだ語学学校では韓国人、タイ人、中国人などのアジア系の学生や、中東系やアフリカ系の学生も居ましたが日本人も数名居ました。英語が話せないうちは、10分英会話をするのも疲れるものなので結局は日本人同士でつるむ様になり、学校でも休日でも日本語を話すようになっていました。

ホームステイ先のオーストラリア人ファミリーは本当に親切で、特にお母さんが良く面倒をみてくれました。休日には5歳の娘さん(ジェニー)と7歳の息子さん(ニッキー)、そしてお父さんも一緒に家族で観光やピクニックに連れていってくれたり、お母さんは美味しい手料理を毎日のように作ってくれたりしていました。本来であれば、楽しい筈なのに英語で会話をしなければならないという苦痛の方が先立ち、休日に誘って貰っても断ってついつい日本人の友人と遊びに出かける始末でした。今思えば、なんて勿体ないことをしたんだろうと悔やまれてなりませんが、当時の私は英語で話すことがそれほど苦痛だったのです。

1か月というのは、本当に速いもので瞬く間に語学学校も終わりに近づきました。

日本人ばかりですが本当に良い友人もできて名残惜しいのでもう2週間延長して学校に通いましたが「日本語を話す環境から離れないといけない」という焦燥感に突き動かされるようにパースに行く決意をしました。友人らは「パースに行っても仕事は少ないよ。せっかくここで慣れてきたんだからメルボルンで仕事探せば?せっかく友達もできたんだから。」と言ってくれたにもかかわらず、私は振り切ってパースに行ってしまいました。

パースでの苦い思い出

全く知人もいないパースに行き、最初はゲストハウスに泊まりました。そこで知り合いになったタイ人と日本人の2人組からファームステイするから一緒に行かない?と誘われたのですが、日本語を話さないことを目標としていたので断ってしまいました。その後、仕事を探しましたが本当に仕事は少なく、日本食レストランのウェイトレスしかないような状況でした。とにかく日本語から離れる、という目標があったので日本食レストランは避けたく、他の仕事にせっせと応募しました。

当時の英語力ではまともな会話をすることはできなかったと思いますが、とにかくチャレンジしようと、オーストラリア人向けの求人に応募していました。が、どこに電話をかけても「あなたは専門技術も無いし、第一英語もまともに話せないから難しいですね」と一蹴されておしまいでした。そのうちに気持ちも萎えてきて、あの時のタイ人と日本人の2人組と一緒に農場巡りに行けば良かったな、と悔やむようになりました。

その後、ホームステイ先を見つけオーストラリア人の旦那さんと日本人の奥さんと息子さん1人の家庭で住みこむことになりましたが、当初の条件を超えた仕事を押し付けられたのでほどなく出ることになりました。住む場所を探しているとタイミング良く、日本語を勉強しているオーストラリア人の大学生(女性)とフラットシェアをすることができました。

一方、仕事が見つからなかったので時間を持て余しても仕方がないので運転免許を取ることにしました。オーストラリアは日本のように自動車教習所がないので、運転の個人指導をしてくれる先生を探し、時間ごとに講習料を払うようなしくみになっています。私が依頼した先生は韓国人の男性でした。

韓国人の指導員は英語が流暢で、とても優しい方だったので私の下手な英語にも気長に付き合ってくれました。運転技術のほかに他愛もない話しもしていたように思いますが、言いたいことが口から出てこなくてストレスばかり溜まりました。フラットに戻ると日本語を話すシェアメイトと日本語交じりの英語で会話するのが気楽でした。そうこうしているうちに、日本食レストランで働くことになりました。オーナーが中国人だったので会話は英語であるという点に妥協点を見つけたのでした。

ところが、英語でオーダーが聴き取れないし、2日目にコカ・コーラをお客様のスーツにぶちまけてしまい、気が小さい私は数日後に辞めてしまいました。免許センターで受けた試験は不合格となり、やることなすこと上手くいかず、パースで居ることに意味を見出せなくなっていきました。そして、とうとうここを出ようと決心しました。メルボルンの友人らを振り切ってパースに行ったのに、こんな無様な顛末情けない結果となってしまったので、メルボルンには戻れないな、と思い、シドニーに行くことに決めたのです。

シドニーで日本語ばかりの環境に苦悩

シドニーに行くと言っても誰も知り合いは居ません。当初、パースで知り合った日本人の旅人が、万が一シドニーに行くなら友人T(日本人)を頼ればいい、と言われていたのを思い出しました。シドニーで実際Tさんを訪ねていくと、快く面倒を見てくれました。

お陰で、格安で住む場所が見つかり、免税店での高時給の仕事に就くこともできました。生活が安定してくると、友人の輪も広がりビーチに行ったり、Jazz Barで音楽を聴いたり、と楽しい時間を過ごすことができましたが、それは私が最も避けたかった「日本人と日本語ばかり話す日々」だったのです。

オーストラリアに来て既に半年が来ようとしているのに日本語を話す時間が50%以上ある環境に危機感を覚え、せっかく落ち着き始めた日本人同士の共同生活から飛び出し、ヨーロッパ人しかいないシェアハウスに移ったのです。スウェーデン人2人、ドイツ人1人、イギリス人1人と日本人の私、という構成でしたが、私の拙い英語ではまともに会話についていくことができず、だんだん疎外感が増していきました。

免税店での仕事は梱包作業で、上司はエジプト人、同僚は中国人や日本人でした。ある日、エジプト人の女の子が入社し、上司から仕事を教えるよう指示を受けました。英語で仕事を教えるなんて、初めての経験なのでドキドキしましたが何とか上手くこなせたようで、次第に軽いお喋りをしながら仕事ができるほど慣れてきました。

Tさんのお陰で充実した半年を過ごすことができましたが、とうとう私にも日本帰国の日が来ました。オーストラリアに来る前に期待していたほど英語が話せるようになっていないけれど、時間切れです。自助努力が足りなかったと言わざるを得ません。免税店でできた日本人の友人たちも、口々に英語が上達しない危機感を感じながら1人、また1人と日本へ帰国していきました。

拠点を3か所も変えたのも反省点です。語学の習得が主目的だったのに、モヤモヤした気持ちを抱えながら遊んだり働いたり中途半端な生活を送ってしまいました。ワーキングホリデーという制度は、若い人の交流が目的なので1年間語学学校に行くことや、ガッツリ働くことは推奨されていません。ホリデーするための資金をバイトで稼ぐ、という趣旨のものなので私はまぁまぁ制度に則っていたかな?と自分を慰めながら帰路につきました。

英語力の無さがハッキリ分かったから本気になれた大学最後の1年

22歳の私は大学5年生になりました。ワーキングホリデーの痛い経験を覆す為に今までにないほど勉強に励みました。大学1~3年間はあまり真面目にやっていなかったのでTOEICの点数は英米語学科の学生としては公表するのも恥ずかし過ぎる350点でしたが、5年生でなんと700点が得点できたのです! ダメだった思い込んでいたオーストラリアの経験が、無駄ではなかったと分かった瞬間でした。そして、俄然やる気が湧いてきました。語学の上達度合いは自分では分からないものなので、テストの点数で判断するのも良いと思います。

大学5年生の私は猛勉強をしたので成績優良となり、学生課から交換留学を打診されるようになりました。1~3年の頃はやる気がなく遊び呆けていたので交換留学など手が届かない世界だと思っていたのに大学側からお声がかかるなんて夢の様でした。でも既1年間も休学した身なのでこれ以上、卒業を遅らせることはできません。それに、本格的な留学となるとそれなりに経費もかかるので資金的にも難しく、何よりもオーストラリアで辛酸をなめてきたので、こんな英語レベルで留学などしてもネイティブレベルの授業についていくことなど到底できないことが、容易に想像できたのです。結局は、交換留学は諦め、残りの時間は粛々と勉学に勤しみました。

1993年:「話す英語」を使えなかった職場

1993年、1年遅れの新卒としてある中小企業で働き始めました。

全世界の河や湖に生息する淡水魚を輸入し、日本国内の専門店などに卸す熱帯魚の貿易会社で輸出入業務に携わり、大学やオーストラリアで習得した英語が役に立ちました。

ですが、読み書き中心の業務だったので会話は一向に上達せず、たまに海外から電話がかかってくると緊張のあまり英語が口から出てきませんでした。それに、周囲の人に聴かれていると思うと、自意識過剰になりますます話せなくなりました。

3年もすると、仕事はある程度こなせるようになってきたのですが、相変わらず英語読み書き中心の業務なので会話力に進歩が見られないという状態に焦りが出てきました。当時はオンライン英会話という便利なツールは無かったので、英会話の練習をするためには通学式の英会話スクールに通うしかありませんでした。

会話に力を入れたかったのですが費用面で割が合わなかったので、妥協案として比較的お財布に優しかった英語塾で英検準1級の資格取得のための勉強を始めました。中学生や高校生に交じって週1回塾に通う他、自宅学習も欠かさず、遊びに行く先にも常に英検の過去問を持ち歩くほどチカラを入れていたので1次試験も二次試験も一発合格することができました。

同時にTOEICも受験したところ、800点取得することができたのです。大学5年生の時から100点UPしたことの感動はひとしおでしたが、試験で高得点することと、英語で話せることは別物です。モヤモヤした気持ちとオーストラリアでの失敗、正規留学できなかった後悔の気持ちがせめぎあっていました。

同時に大学時代、英語に拘らず世界に飛び出していった女友達が羨ましくもありました。その他の休学仲間はそれぞれにインド・タイ・アメリカ・中南米・アフリカ・中国などを旅したり、働いたり、自由を謳歌していましたが私は案外臆病だったので、英語圏以外の国を一人で旅することなどできるわけないと思っていたのです。

そのような気持ちを当時の同僚に話したところ、沢木幸太郎の深夜特急を読むよう勧められ、全6巻セットの文庫本を気前よく譲ってくれたのです。タイミングが良すぎるとはこのような事を言うのでしょうか、その内容は私の心に突き刺さり、私も沢木耕太郎が辿ったルートで旅がしたい、と強く思うようになったのです。でも貯金はありません。どうしよう? 色々迷いましたが、今行かなければ何時行くの?

当時は27歳を過ぎるとおばさんだ、という変な思い込みがあり、26歳だった私はとにかく日本を出よう、と現金とトラベラーズチェック合わせてたった40万円分を持って中国に向けて旅立ったのです。振り返ると、よくそんな冒険ができたと思いますが若気の至りですね(笑)

1996年:バックパッカー旅行(中国からインド迄)

不足資金は行く先々で仕事を見つけて稼ぎながら移動すればいいや、という安易な考えで

したがこれから飛び込む道の世界に恐怖の入り混じった期待感が膨れていました。結局、沢木耕太郎と同じルートは辿りませんでしたが、中国から入りユーラシア大陸を抜けてヨーロッパを目指すつもりでした。

神戸港から鑑真号という船に乗り2泊3日かけて上海に向かいました。今はLCCで高松→上海がセール時など数千円で行ける時代なので比較になりませんが、当時、乗船時間が長いとしても片道1万8000円は破格の料金でした。船内には20代のバックパッカーが7人居ましたが私以外、全員男性でした。似たような境遇同士、船内の食堂で直ぐに打ち解けて、上海到着したら皆で同じ宿に向かうことになりました。

道中、私以外は皆、地球の歩き方など持参していることに気付きました。

私は無謀にもガイドブックも持たずに旅立ったのです。中国では筆談ができるから大丈夫だろう、と楽観視していたのです。インターネットもない時代だったので宿泊先も探せません。何を考えていたのか良く分かりませんが、そんな旅立ちでした。

どうしてバックパッカー旅行など、馬鹿なことをしたんだろうと後悔した時期もありましたが、いま振り返ると書いているそばから当時のドキドキ感が蘇り楽しかったことしか覚えてないことに気付きました。これでいいのだ、という気持ちで自信を持つことも必要ですね。

上海の宿に無事チェックインし、レストランでは各々の旅の予定を話したり、情報交換したりしました。今回の旅のテーマは「飛行機を使わない」「行った先で移動費を稼ぎながら旅を続ける」と決めていたので、翌日の予定は上海の人材紹介会社に登録しに行くことでした。

実は、出発前に英字新聞Japan Timesで「Job in Shanghai」という広告を見つけたので、登録しにいくつもりで日本語と英語の履歴書を10枚セット準備してきたのです。ノートパソコンも無い時代だったのでA4の紙に印刷したものをクリアファイルに入れてバックパックの中に忍ばせていました。

人材紹介会社には、日本を発つ前に電話でアポを入れていたので予定通り面談することができました。担当者は日本語が流暢な中国人でした。上海なら、中国語が話せなくても英語が話せたらトヨタやホンダなど著名な企業で日本人駐在員のアシスタント的な仕事を紹介できると言われました。

給料も現地採用レベルでそれほど悪くなかったので少し働いてみようかな、と思いましたが当時の上海はかなり大気汚染がひどく、空もスモッグで灰色がかって見えたので、ここに長居したくないと感じました。しかも英語を使う機会を求めて日本を飛び出してきたのに日系企業で日本人付きのアシスタントとして働けば、オーストラリアの二の舞になってしまう、という恐れもあり上海で働くことは断念しました。

1996年の中国は、人民服を着た人がまだ居たし、道端で囲碁やマージャンやっているオジサン達も沢山いたし、安くて美味しいものが手軽に食べられる屋台が立ち並ぶ街並みなどなど、見るもの全てが衝撃的でした。実は、大学1年生の時に中国語を履修したのですが、発音でつまずき、文法もお手上げとなり成績は最低のDでした。今後、中国語を使う機会はないし、大学2年生以降は二度と勉強するまい、と思っていました。が、まさかここで大学時代に学んだ成績Dの中国語が役に立つとは思いませんでした。

英語の発音についての記事を書いているつもりが、いつの間にか中国のことばかり書いてしまっているのですが、実に12年後に私は駐在員として中国で仕事をし、発音の基礎から学ぶ機会に恵まれようとはこの時は夢にも思っていませんでした。そして、ここで、発音が如何に重要か、を身をもって体験することになるのです。

話しを元に戻しますが、上海では働かない、と決めた後、夜行列車で重慶・貴陽・昆明と移動し、長距離バスで大理まで行きました。大理から昆明までまたバスで戻り、南寧まで夜行列車で移動しそこでベトナム行のVISAを手配しました。手配に1週間かかるとのことで、その間、バスで陽朔に行き、風光明媚な景色を楽しみました。

1997年:中国からベトナムへ

VISAが手配できたころに南寧まで戻り、晴れてベトナム行の国際列車に乗り込みました。

中国とベトナムの国境付近で10ドルの賄賂を要求されて腹が立ちましたが、払わないとベトナムに入国できなかったので背に腹は代えられず渋々と払いました。1か月の中国の旅が終わり、ここからベトナムの旅が始まるのかと思うと怖くもあり、楽しくもあり、ドキドキしながら列車で国境超えをしました。この列車の中で行先を同じくする日本人の旅人と出会ったのでハノイの宿まで一緒に行動することになりました。言葉も通じない国で同胞に会うのは心強いものです。

無事ハノイに到着した私たちはとりあえず安宿にチェックインしました。そこで、私は旅立つ前から実行したかったことを決行したのです。それは頭を丸めるということでした。どうしてそんなことをしたかったかというと、理由は単純で、日本で働いていると女性が丸坊主にするなんて受け入れて貰えないからどうしても旅行中に試してみたかったのです。

実際、剃髪すると一休さんのようになってしまい、レストランなどではベトナム人から「どこのお寺から来たのですか?」と聞かれる始末で恥ずかしくなりその後はターバンを頭に巻いての旅を続けることになりました。

ベトナムでは、ハノイからホーチミンまで乗り降り自由なバス周遊券で気ままに行きたい街に立ち寄りながら1か月半の旅をしました。その後、カンボジア、タイ、マレーシア、インドネシアと旅を続けることになるのですが詳しくは別サイトにてご一読ください。当初の予定では世界一周旅行を目指していたのですが、資金も体力も底をつきかけたので一旦インドネシアから資金稼ぎのために日本帰国をすることになるのです。

この時点では私は27歳でした。世間の同年代は会社でキャリアを積んでいるのに私は一体何をやっているのか焦りもありましたが、一旦目指した旅を続けたい一心で半年間派遣社員などで稼いだ資金を片手に次はインドに飛びました。世界中に様々な国がある中でも、インドだけは外せないと思っていました。

日本のように整備されおらず、野良牛が街を徘徊し、ガンジス河では死体が流れているような常識を覆されるような世界に身を置いて自分が何を思うか自由に観て、聴いて、感じてみたかったのでしょう。日本は敷かれたレールの上を歩まなければいけない何か窮屈な感覚があり、そこから抜け出したい一心だったと思います。インドに行けば何かが変わるのではないか?という期待感もありました。

1998年:念願のインドはカルカッタから

インドは当時のカルカッタからマドラスまで電車やバスを乗り継いで気ままな旅をしましたが、ある時、私が求めていた大きな変化が訪れたのです。南インドのとあるビーチで宿泊していた時に、私以外は皆欧米人でした。夕食後は殆ど毎晩キャンプファイヤーを囲みお喋りに興じていたのですが、ある日、誰かの発案で今まで訪れた旅先で一番面白かったエピソードを一人ずつ発表しようということになったのです。私は慌てました。

英語力もオーストラリア時代よりはかなりついていましたが、大人数の前で発表できるほどではなく、自分の番になったらパスさせてもらおうと思っていました。が、みんな私の話しを聞きたいとのことで、雰囲気的に話さざるを得ない状況に追い込まれたのです。その時に、顔から火が出るほど恥ずかしかったように思いますが何とか英語で話しをすることができました。そして皆から面白い話しだったと口々に言って貰えたことで、大きな壁を乗り越えられたと感じたのです。

1年半も旅をしていると、行く先々で英語で意思疎通をせざるを得ないので否が応でも上達しますが、先ずはその壁を打ち破らなければなりません。恥ずかしがって話さなければ、当然の如く「話せない状態」が続くだけです。英語で問題解決ができるという自信は付きましたが、大勢の前でスピーチをするということは別物です。まさか旅先でこんな状況になるとは思いもよらず、いま思えば良い体験ができたんだなぁと思います。

道中、さまざまな苦労を乗り越えていきましたが、最終的にはある理由で4か月目に日本に戻ることになりました。インド編も別サイトで詳しく書いていますので、ご興味がある方はこちらからご一読くださいませ。

1999年:インドで仕入れた雑貨をフリマで売る

インドから日本に帰国した後、何をやろうかと考えていましたがどうしても会社勤めをしたくなかった私は、現地で雑貨を仕入れてフリーマーケットなどで販売しようと計画を立てました。そこで、タミールナドゥ州のポンディシェリという街で、Tシャツやベッドカバー、お香などを60Kgほど購入し、郵便局から船便で東京に向けて送ったのです。

その後、夜行列車でカルカッタまで戻りフィリピン経由で東京に戻りました。東京では今でいうシェアハウスに住所を置き、荷物を受け取り早速代々木公園のフリマを予約して売ってみたところ、予想以上に売れたので自分の仕入れセンスに自信を持つことができました。

そのまま東京でビジネスを継続すれば良かったのですが、当時の友人は大阪に多かったので大阪に拠点を移して雑貨ビジネスを継続することになりました。中古のボックスワゴン車を購入し、販売品を積み込み奈良・和歌山・京都・兵庫・各地に行商しにいきました。

実家がある香川県にも足を延ばし3日連続のフリマで販売した際は先ず先ずの売り上げを上げることができたので各地で試してみることも悪くないと思いました。ですが、仲良くなった同業者の方は一か所で固定客を持った方が確実だとアドバイスをしてくれました。一か所に落ち着くことが苦手な私はついつい足を延ばして広範囲で活動してしまったことが反省点です。

2000年:就活したら即採用アメリカ赴任したお話し

売れる商品が底をついてくると仕入れが必要となりましたが、インドはあまりに遠く、時間も経費もかかるため応急策としてタイに仕入先を変更しました。2か月毎にタイに行っては大阪のフリマで売っているうちに、売れるものと売れないものの傾向が掴めるようになってきました。

当時は東南アジアやインドの雑貨が流行っていたので更に踏みこんで継続していれば軌道に乗せられたと思うのですが、母親から不安定な商売など止めるように避難され続けたため敢え無く終了することにしたのです。でも、それくらいのことで止めるようなら本気度が足りなかったんだろうと思います。

そもそも雑貨ビジネスをやりたかった理由は海外と関わり英語を使った仕事を自ら作り出すということだったのにいつしか海外にもあまり行かなくなり国内での仕事が増えてしまっていたので本末転倒のようにも感じていました。そこで、不本意ながら会社勤めに逆戻りすることにしました。

当時、大阪で英語を使う仕事が異常に少なかったので東京で就活を始めました。また、香川県の実家に戻ることも視野にいれるため高松市でも人材紹介会社に登録しに行きました。ところが、人材紹介会社3社から言われたことは「海外業務を経験されたあなたにご紹介できるお仕事はありません」ということでした。

香川県には国際空港も港も無いので海外取引が殆どないので仕方ないことですが、私は諦めきれず4社目を当たりました。その人材会社は豊富な案件を持っており、アメリカ勤務の仕事を紹介してくれたのです。1週間後、面接の当日に採用が決まり、その1週間後にはロサンゼルスに飛んだほど猛スピードで物事が進み、それまでウジウジ悩んでいたことが嘘のような展開になりました。

英会話力を伸ばしたいがためにバックパッカーの旅に出たものの、日本帰国後は方向性を間違ったと悩む日々が続いていましたから、とうとうチャンス到来!アメリカでその経験を活かすことができるんだ!と意気込みロサンゼルスでの生活を開始しました。が、そうは問屋が卸さないもので、あり得ない日々が始まったのでした。。。

2001年:憧れのアメリカ勤務は期待外れだった

晴れて正社員として採用され、意気揚々とロサンゼルスに飛びましたが面接で聞いた内容とは大きくかけ離れた状況に唖然としました。オフィスも無く、とにかく商品を持って飛び込み営業をかける、というものでした。左ハンドルの車を運転したこともないのですが、いきなり運転してL.A.中車で走り回ることになったのです。また、アパートは3人で1部屋を使うという共同生活でした。もちろん私は女性と部屋をシェアしていましたが、男性も3名で1部屋を使っていました。ただ、1部屋と言っても、20畳もある大きな部屋で3人使いでも十分スペースが余るほどで、狭い日本のアパート暮らしから解放された爽快感がありました。

右側通行での運転は最初は恐々でしたが、直ぐに慣れてL.A.のダウンタウンから郊外まで同僚を乗せて運転するようになりました。商材は敢えて伏せておきますが、主な売り込み先は中古車センターだったので郊外に出ることが多く、先ず目についたのがサボテンですね(笑) やっぱりL.A.は砂漠の上に建てられた街なんだ、と実感しました。中古車の経営者は中東の方が多く、彼らにとっても英語は第二言語なので一抹の安心感がありました。

ただ、日本から持ち込んだ商材がアメリカの風土に馴染まず(材質が弱すぎて)納品してもすぐに壊れることが多く「こんなゴミを売りつけるな!」と怒鳴られる始末。面接では市場調査済みで、直ぐに営業活動を開始できる状態になっている、と聞いていたのに話しが違うじゃないか、と憤ってみても時すでに遅し、現状で頑張るしかありませんでした。立上メンバーは私含めて5名おり、全員日本人。女性社員は英語がある程度話せるのに、男性社員はからきしダメでした。そのせいで、仕事はおろかプライベートでも男性社員の通訳もする羽目になりで精神的に重かったです。私自身、アメリカでの生活は初めてで自分のことも精いっぱいの状況で男性社員の食材・生活用品の買い物にも通訳のような立場で駆り出されてそれこそサービス残業代が欲しいくらいでした。

L.A.でビジネスを立ち上げた良い経験

しばらくして、現地の日本人ビジネスコンサルタントと契約し、アドバイスを仰ぎながらオフィスを借りることになりました。オフィスと言っても箱だけで、デスクも椅子も電話も何もありません。先ずはOffice Depotというオフィス家具の専門ホームセンターに行き机・椅子・ホワイトボード等々購入し、次にPC Depot(パソコン専門店)で社員の人数分のパソコンを購入。NTTのような電話会社に出向き、ビジネス用の回線を発注しました。人数分の内線について説明するのが大変だったと記憶しています。また、当初は5人で2台の車を共有していましたが、社員も増えることになったのでレンタカー会社と7台ほどレンタル契約をし、ビートルやトーラスなど、日本ではなかなか乗れないような車種を乗ることができたのは良い経験になったと思います。

立上メンバーは5人でしたが、その後12名増員することになり合計17名分のアパートを契約することになりました。就労VISAを持たない社員の契約などできるのだろうか?と不安に思いましたが交渉の末、契約することができたので逆にこちらが驚きました。実は、この会社の社長は海外進出が初めてで相当甘い考えを持っていました。なんと、観光VISAで、3か月毎アメリカと日本の入出国を繰り返せばよいという危険な発想だったのです。ビジネスコンサルタントからも現地で就労するためには就労VISAが必要だと何度も説明を受けているのに社長は自説を曲げませんでした。不安を覚えた私は何度も社長に直談判した結果、会社で就労VISAの申請をして貰えることになりました。本来は会社が前もって準備をしなければならないことなのに、社員から散々説得をされて漸く重い腰を上げるような姿勢に憤りを感じていましたが、既に入社しアメリカに来てしまっているので辞める訳にもいきません。やれることを最大限やるだけだ、と腹をくくりました。

N.Y. 同時多発テロで就労VISAが取れない

一旦、話しが決まれば後はコンサルに依頼すればある程度のことは進めてくれるので気持ちが楽になりました。後は申請書類に必要な証明書を日本から取り寄せたり、申請書類に必要事項を記入したり、手続きはスムーズに進んでいました。ニューヨーク同時多発テロが発生するまでは。ある朝、会社に行こうと準備をしているとTVでニューヨークのツインタワーが崩壊している映像が流れていて、同僚が騒ぎ始めました。まさかそんなことが起こるとは夢にも思わないので信じられない気持ちで取り敢えず出社したのです。通常業務をするために、取引先などに電話しても繋がらず、辛うじて携帯電話で1社のみ連絡が取れたので確認すると、ダウンタウンの業者は郊外に退避していると教えて貰えました。

次の標的はサンフランシスコか、ロサンゼルスかとニュースで伝えられたため街は騒然とし、覚悟を決めなければならないのかと思いました。私たちの会社と住居はL.A.でも比較的治安の良い場所に位置していたのですが、恐怖を感じずにはいられませんでした。正直、あれほど望んだ就労VISAもどうでも良くなったくらいです。しばらくして、騒動が落ち着いたので手続きを進めようとすると、弁護士から見込薄との宣告を受けました。中東系の外国人にはVISAを発給しないところから波及してアジア人やその他の外国人も排斥する方向に動きだしたというのです。それはそうですよね、あわやペンタゴンも攻撃を受けるところだった状況下、アメリカ側の意向も理解できました。同時多発テロが原因でVISAを失った人もいるので文句は言えません。

2002年:L.A.から日本帰国

結局は仕事は軌道に乗らず、会社自体閉鎖となりやむなく日本帰国することになったのです。 L.A.の空港まで運転してくれたインド人タクシードライバーが身の上話しをしてくれたのですが、外見が中東系にも見えるので会社で差別に合い、仕方なくタクシーを運転しているとのことでした。外国で暮らすには様々な障壁を乗り越えないといけないのですが、今回の障壁は自分の努力で何とかなる範囲を超えていたのでおとなしく日本帰国することにしました。ロサンゼルス空港に到着するといつもより人が多く、騒然としていたのでどうしたのかチェックインカウンターで聞いたところ午前中に無差別発砲事件があった、とのことでした。それでも私の乗るフライトは運行しており、大混乱の中、間一髪で搭乗することができました。たった2年でしたが、濃い~経験をさせて貰えたと感慨に浸りながらアメリカを後にしたのでした。。。

 

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